Jan 14, 2019

テーブルコーディネーターになるには


テーブルコーディネーター宮島ワンダ
外国人のための新聞記事はポーランド語で出版されていて、
日本語に中央大学教授、宮島直機氏が訳されたものです。

 

Wanda Miyajima

レナ-タ:お噂はかねがね伺っています。
ワンダ:あら、どんな噂でしょう?

レナ-タ:ご安心ください。いい噂ばかりです。
ところで、今度、在日ポーランド人のために発行
している新聞でワンダさんのことを取り上げることに
したのは、この9月にワンダさんがNHKの教育番組
「おしゃれ工房」に出演
されていたのをテレビで
お見かけしたからです。お客様のおもてなしの仕方や
お客としてもてなしを受けたときの
作法を紹介されていましたが、テレビに出演
されるのは初めてですか?

ワンダ:いいえ、初めてではありません。
何回か出演したことがあります。

レナ-タ:ところで、履歴書の「職業欄」には何と
書かれているのですか?

ワンダ:「テーブルコーディネーター」と書いています。
日本でこの職業が認められるようになったのは最近の

ことで、たとえば政府が資格試験を導入したのは5年前のことです。
英語ではdesignerと言っています。ポーランド語に

こんな職業名はあるのかどうか、さだかではありません。

レナ-タ:テーブルコーディネーターの仕事を
始められたことと大学で勉強されたこととは

何か関係があるのでしょうか?
ポーランドではワルシャワ大学の日本学科で勉強され、
日本に来てからは国際キリスト教大学で勉強されたと
伺っていますが。

ワンダ:ええ、関係あると思います。ワルシャワ大学の一年生のとき、
卒業論文のテーマに日本の年中行事を選んだのを覚えています。

柳田国男が書いた本を苦労して読んだのを思い出しますが、
こんな難しいテーマを私が選んだことに、当時
ワルシャワにいた日本人も
驚いていましたが、
これで私の来日が決まったのかもしれません。もちろん、
当時は来日するとか日本の大学を卒業することになると

は想像もしていませんでしたが。

レナ-タ:国際キリスト教大学を卒業したあと、どうされました?

ワンダ:1977年に大学を卒業したあと、大学で就職のことを
相談に行きました。家庭に閉じこもることなど

考えてもいませんでしたから。ところが、外国人の女性が
日本で仕事を探すなど論外だと言われました。ポーランドに

帰って日本語でも教えたらどうかなどと言われました。
ショックでした。大学は出たけれど、どこにも行き場がない。

いろいろ考えて、翌年「アグロポール」という日本とポーランドの
合弁商社で働くことにしました。1978年から80年までの

2年間、そこでいろんなことを担当しました。
通訳をしたり、ショールームの展示をしたりしました。
通訳の仕事はあまり好きではありませんでしたが、
ショールームの展示は好きでした。「アグロポール」で2年、
働いた後、ミサワホームが主宰していた

インテリア・スクールで勉強しました。何か
新しいことを始めたくなったからです。この学校で
勉強したおかげで新しく仕事を見つけることも出来ました。

レナ-タ:ミサワホームは、たしか建築会社でしたね。
ワンダ:ええ、家の建築や改装をしていた会社です。
その副社長が学校の講師をしていて、生徒は40人もいたのですが、
副社長は私に目をかけてくれました。

レナ-タ:もちろん、外国人はワンダさんだけ?
ワンダ:そうです。

レナ-タ:授業は日本語で?
ワンダ:もちろんです。日本人に出来ることなら
自分にも出来るはずだと考えるしかありませんでした。
大学までの教育はポーランドで、しかも自分は日本人でも
ないし…。しかし、自分で何とかするしかありませんでした。

あの頃は本当によくしゃべり、よく働きました。
ミサワホームの副社長さんは私の使い方を
心得ていたと言うことでしょう。

セミナーではテーブルセッティングの方法を教えました。
当時、日本でヨーロッパのテーブルデコレーションは
珍しかったからです。給料も悪くなかったのを覚えています。

今度はご自分で「テーブルコーディネート・宮島ワンダ教室成城」
を始められたということですが、そのとき成城に自宅を移され、

そこで開校されたのでしょうか?
ワンダ:ええ、ヨーロッパのテーブルセッティングを
教えるとなると、それにふさわしい場所でということになります。
資金があれば銀座でも青山でも乃木坂でもよかったのですが、
一人でやっていくとなると、残念ながら自宅でという
とにならざるをえません。
最近はオンラインショップを開き、ぜひ、ご覧下さい。

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